裏切られた「革命」に抵抗した士族たち
明治維新は〃尊皇凄夷〃を旗印として、諸藩く薩長土肥が中軸)の武士の活躍によって成し遂げられた。しかし、明治新政府の施政方針は彼らの思い描いていた社会とはまったく反対方向に歩み始めた。
版籍奉遠、秩禄処分、廃藩置県、徴兵令、地租改正、廃刀令等…、矢継ぎばやに改革が断行されて、武士の拠って立つ基盤を根底から破壊されていった。武士身分の呼称は「士族」として残されたものの、日々の生活は窮乏を極めた。その不平不満はそれぞれに異なっていたが、新政府への怨瑳の声は全国に満ちあふれていった。
では、それら諸改革がどのように士族を追い詰めていったのか。
●版籍奉違(明治二年二月)
版籍奉還は、幕藩時代の諸大名の領地と人民を朝廷へ返還を命じたもので、同時に大名の家臣団の家禄を大幅に削減させた。
徳川宗家はもっとも悲惨で、八百万石といわれた総石高を駿河・遠江の七十万石へ移封させられ、旗本・御家人三万数千人の大半が無禄(無給)となった。
大名は「藩知事」の称号を得たが、高禄の家臣たちは削封の上、土地・人民の支配権を奪われた。
身分制度では、公家・大名(藩主)は【華族】、武士は【士族】、足軽・仲間は【卒族】、農・工・商人は【平民】と規定した。卒族はのち士族と平民に分けられて、その呼称は消えた。
●廃藩置県(明治四年七月)
明治新政府は中央集権を確立し、全国統一を果たすために廃藩置県を強権をもって断行した。藩知事(諸藩主)を東京へ移住を命じ、その領地と人民を切り離し、また家臣団との主従関係を解消させた。
藩知事を廃止して、代わりに中央政府から「県知事」を派遣した。始めは三府・三百六県を数えたが、その年に三府・七十二県に整理した。これによって士族は藩という帰属する位置を失い、中央政府や地方機関に就職の伝手を求めて、役人勤務の道を選ぶか、帰農するか、商工人へ転向をせざるを得なくなった。戸籍法改正によって、平民にも苗字を名乗ることが許され、士族が玲持とした特権を奪われたが、もっとも彼ら士族を激高させたのが「徴兵令」であった。
●徴兵令(明治二年十一月発布)
提案者は兵部卿大村益次郎である。大村は近代国家を形成するにあたっては兵制改革が急務であり、それには国民皆兵の制度が必要だと考えた。四十万の士族を常備軍に編成するには、財政的基盤が貧弱だつたから、平民(農工商)から国民の義務として徴兵する制度を確立しようとしたのである。
●廃刀令(明治九年三月)
先祖代々の家禄を奪われ、武士の矜持たる兵権をも失った士族に止めを刺したのが「廃刀令」であろう。最後に残された士族の唯一の誇りである、「武士の魂」を腰にできなくなった悲憤は想像するに余りある。
大礼服の着用並び軍人、警察官等の制服着用の者以外は禁止となり、違反者はその刀を没収された。しかし、なかなか永年の習慣は断ち切れず、仕込み杖に拵えたりして手放きなかった。なかには帯刀に執着して軍人や警察官を志願する者も多かった。
<士族の事件史 >
●参議・横井小補の暗殺
●兵部卿・大村益次郎の暗殺
●山口脱退兵事件
●雲井龍雄事件
●愛宕事件(久留米事件 )
●広沢真臣・前原一誠襲撃事件
●佐賀の乱
●神風連の乱
●秋月の乱
●萩の乱
●大久保利通晴殺事件